2年以下の禁固刑と定められているドイツの「近親相姦罪」(近親婚を認知する動きあり)が有名だが、日本では、明治時代に消滅して以来、近親相姦を罰する法は存在していない。
アザンデ族 |
更に書けば、パゴダ(仏塔)で有名なミャンマーで、現在でも解放闘争を継続し、最大の反政府武装組織「カレン民族同盟」を持つ仏教系の「カレン民族」(キリスト教系は政府軍)では、親子婚(父娘)が許可されていると言われるが、また、人食い族として恐れられていた「カリブ族」(南米)や、南スーダン・中央アフリカ・コンゴ民主共和国にかけて分布する「アザンデ族」、ウガンダのニョロ族(バニョロ族)の親子婚(母子)も知られている。
日本の場合、いとこ婚は問題ないが、戦後の民法によって、三親等内の婚姻は禁止されている(民法734条)のも、万人の知るところだろう。
これが、我が国の近親婚に関わる基本的制度である。
歴史的に言えば、我が国でインセスト・タブーが本格的に広まったのは江戸時代であると言われている。
イザナギ(右)とイザナミからはじまる日本の神話 |
黄泉の国から戻ったイザナギが「禊」(みそぎ)をする、日本神話の有名なエピソードを例に挙げるまでもなく、ここで注目したいのは、「古事記」・「日本書紀」に記されている「国津罪」(くにつつみ)という、神道における「罪」の観念である。
「クニ」の成立以前の「罪」であるが故に、農耕の弊害としての「天つ罪」(あまつつみ)に対して、「クニ」の成立以後の「罪」の概念である「国津罪」とは、疾病・災害・近親相姦・メンス・出産・呪詛・死など、「穢れ」(けがれ)の観念を意味するものである。
文化人類学・宗教学の重要な概念である「穢れ」=「不浄」とは、読んで字の如く、「清浄」と対立する神道の宗教概念である。
江戸時代の国学者・本居宣長の主著の「古事記伝」によると、禊や祓の浄化について、以下の解釈がなされている。
「禊祓(みそぎはらい)というのは、身体の汚垢(けがれ)を清めることであって、心を祓い清めるというのは、外国(とつくに)の意(こころ)に外ならず、わが国の古代では、そのようなことは決してない」(「古事記伝」)
ここで宣長は、神道の根幹の一つである「禊祓(みそぎはらい)」というのは、ひたすら身体を清浄にすることであり、「禊祓」の対象になるのは、あくまで、「物」としての身体に外ならないと言っている。
即ち、「禊祓」は、「心」を清めることでなく、身体の浄化であると言うのだ。
これは、心の浄化を重視する仏教的世界観を根柢から崩すものである。
このことを想起するとき、無論、本居宣長への批判とは無縁だが、3.11以降、避難民や物資に対する、この国の人々の感情に垣間見えた差別的視線を想起するとき、そこに、「物」としての身体に宿る、「穢れ」の観念が張り付いているように思われる。
特に、避難した福島県民に対する差別の根柢にあるのが、「放射能を浴びた者たち」への「穢れ」の観念が見え隠れするが故に看過しがたいのだ。
熊井啓監督の映画・「地の群れ」では、「原爆病」と「被差別部落出身者」が相互に罵り合うという凄まじい映画だった。
生き延びた被災者が、ただそれだけのために嫁に行けず、差別される映画・「黒い雨」も同じ。
一切は「穢れ」ているが故の許し難い差別である。
特に、避難した福島県民に対する差別の根柢にあるのが、「放射能を浴びた者たち」への「穢れ」の観念が見え隠れするが故に看過しがたいのだ。
「地の群れ」より |
熊井啓監督の映画・「地の群れ」では、「原爆病」と「被差別部落出身者」が相互に罵り合うという凄まじい映画だった。
生き延びた被災者が、ただそれだけのために嫁に行けず、差別される映画・「黒い雨」も同じ。
映画「黒い雨 」より |
一切は「穢れ」ているが故の許し難い差別である。
我が国のインセスト・タブーもまた、「清浄」と対立する「穢れ」の観念と無縁でない。
私たち日本人の、過剰な防臭意識による極端な「清潔信仰」に絶句する。
夜這いの風習を描いた映画「丑三つの村」(「津山三十人殺し」の映画化で、差別が動機に) |
然るに、高度成長期直前まで、各地の農漁村に残存していた、夜這いの風習(ブータンの「ナイトハンティング」と同じ)を持つ我が国では、祭などの「ハレ」の儀式での奔放な性行為が許容されていて、厳格なインセスト・タブーが存在していない事実をも知る必要がある。
同時に、私たちは、インセスト・タブーに関する、正確な原因仮説をも持ち得ていないのである。
即ち、遺伝的弊害の回避(生物学的理論)・近親者への性的関心の欠如やウェスターマーク効果(キブツの出身者同士の結婚が稀有)・親族関係の混乱(レヴィ=ストロースの「親族の基本構造」)、等々、人類に広く見られる現象であるインセスト・タブー(近親相姦の禁忌)の原因についての仮説が多いが、現代に至っても、説得力を持つ一致した見解が得られていないということだ。
以上、縷々(るる)列記したが、私にとって、親子間のインセスト・タブーの問題は、以下の把握に尽きる。
即ち、性的虐待の問題は言わずもがな、「父」・「母」・「兄・弟」・「姉・妹」などの「役割共同体」としての「家族」という物語を、根柢的に済し崩しにすることによって、その家族成員の自我が拠って立つ文化的基盤の崩壊に繋がってしまうこと ―― これこそが、インセスト・タブーの淫靡な風景に据えられている中枢の視座である。
どこまでも、「我が子」への自立的な自我の形成を最大の役割にする親(または、それに代わる成人)が、社会的環境に適応し得る「我が子」との関係の質を、適切で健全な状態に堅持されているか否かという一点にのみあって、それ以外ではないのである。
この把握なしに、インセストの底層に澱む自我の歪みの本質に肉薄することなど叶わないだろう。
(2017年5月)